私がよく利用するスーパーがある。マルエツである。マルエツの店内は狭く雑然としているものの、最寄駅から自宅までの帰り道に立ち寄ることができるという私にとっての立地のよさに、ついつい毎夜利用させられてしまうのだった。ある日の仕事帰り、私はいつものようにマルエツに入った。マルエツに入るとき、私はいつも何も考えていない。だから、マルエツに入ったはいいものの、何を買うかも決めていないのだ。何も考えずに、入る。マルエツというものは、そういうものだ。人は、マルエツに対していつも無計画である。そして無計画な人は、たいてい発泡酒を買う。私もその例外ではなかった。マルエツの店内に入って10mほど歩き、レジ前に並んだと思ったら、いつの間にか発泡酒を手にしている自分に気づくのだ。
「今日も麦とホップか」
マルエツで手にする商品は、だいたい決まっているが、それでもレジに並ばなくてはならないのが社会というものである。想像していただきたい。30がらみの男が発泡酒を片手にレジに並んでいる姿を。仕事帰りだ。ネクタイが曲がり、Yシャツはしわだらけである。おまけにシャツのボタンが1つ外れており、そこから白い肌着が覗いている。口髭の青さが深みを増す午後11時、もちろん目の下にはクマだ。そして右手に持った発泡酒の缶をぼんやり眺める私は、ひとりおぼろげにつぶやくことだろう。
「今日も麦とホップか」
くり返すが、ここはマルエツである。これほど哀しい風景があるだろうか。しかし、どんなに哀しい男にも、レジの順番というものは必ず回ってくるのだった。私は、会計をする。ポケットから出したのは、百円硬貨2枚だ。レジ打ちのバイトに手渡す。バイトが金を受け取り、レジスターを軽快に打ち鳴らした。そしてレシートとおつりが出てくるかこないかのタイミングで、バイトはあらぬ方向を見てこう言い放つのだった。
「T-カードお持ちですかー」
毎日何百回と言っているのだろう。まるで機械のような口調だ。私も負けじと機械のように「いいえ」と言うと、バイトはやはり機械のようにこう言うのだった。
「失礼しましたー」
いや、失礼なことは何もない。何を詫びているのだろうか。T-カードを持っていない私に対し、T-カードを持っているかどうかを確認するという行為が、失礼だと判断したのだろうか。だとしたら、とんだ思い違いである。むしろ「失礼しましたー」という語尾の微妙な上がり具合のほうが、よっぽど私を苛立たせた。何も考えてない人が、ここにも一人いたのだった。
ここはマルエツだ。何も考えずに入店する客がいて、何も考えずにレジを打つ従業員がいる。そして両者を奇妙な関係でつなぐのは、T-カードだ。私には、T-カードから発せられる磁場が、マルエツに何らかの影響を及ぼしている気がしてならないのだった。