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私たちWOOD HOUSE DESIGNは、
長野県上田市を中心に活動するちいさなデザイン集団です。
「人とモノ、人と人を繋げるデザインを」

第14回 ジャッキーは笑顔が命

本コラムをお読みの方のうち、9月26日(平成26年※:川端追記)の「金曜ロードshow」で放映された「ベスト・キッド」をご覧になった方はどれくらいいらっしゃるだろうか。私は、見てしまった。金曜の夜9時というと普段ならまだ仕事をしていることが多いので、「金曜ロードshow」を目にすることなんかそうないのだが、9月26日はたまたま会社を休んでしまったために、「ベスト・キッド」などという見たくもない映画を見るはめになってしまったのだった。見たくないなら見なきゃいいじゃないかと言う妻の気持ちも分からんではなかったが、しかしそれでも見なくてはならなかったのは、その映画にジャッキー・チェンが出演しているからだ。私にとってジャッキーは、幼少期に強い憧憬を抱いた存在、いわゆるアイドルというものに他ならなかった。今となっては、ジャッキーに対する憧憬などほとんど跡形もなく消え去ってしまったわけだが、いざジャッキーが出る映画がテレビで放送されるとなると、やはり見ないわけにはいかないのがジャッキーファンの常なのだ。私は見た。見たくもない映画に、休日の夜の大事な2時間を費やしたのだった。

 

 

ああ本当に無駄な2時間だった。こんなことなら2時間ボックスステップを踏んでいたほうがましだと思うぐらいであった。しかし私は後悔しなかった。なぜなら、その映画がいかにつまらない映画であるかを、あらかじめ知っていたからだ。かつて私は一度その映画を見たことがあった。これはつまらない映画だと強く思った。あまりのつまらなさに憤りさえ感じた。にもかかわらず、なぜまた改めて見る必要があったのか。くり返すが、その映画にジャッキー・チェンが出ているからだ。

 
「ファン」とは、そういうものだ。いかにつまらない作品でも、憧れの対象となる人物がそれに関わっていれば、チェックしなければ気が済まないのだ。逆に気が済んでしまうようなら、その状態は「ファン」とは言えない。「ファン」として生きるのは、決して楽なものではないのである。見たくもない映画に時間と金を費やすなんてことはザラにあることだ。だから私は「金曜ロードshow」を恨んでなんかいないし、ましてや「ベスト・キッド」という映画を嫌いになったわけでもない。金曜日の無駄な2時間は、私がジャッキーファンであることを維持するために費やされたというに過ぎないのだった。

 
そもそも「ベスト・キッド」のオリジナルは1984年に作品化されている。ラルフ・マッチオ演じる弱虫のダニエルがカンフーの達人ミヤギ(ノリユキ・パット・モリタ)に鍛えられ、空手大会で優勝するという、大変にチープなあらすじの映画である。しかし、子供の頃の私は、この映画にしびれてしまった。当時の親友「石井くん」の家にあったレーザーディスクで、何回もくり返し見たものだった。真似したなぁ。「ワックスかける、ワックスとる」とか、ラストシーンの「鶴の構え」とか、友達との格闘ごっこで多用しましたよ私は。こういうのって本当にノスタルジックだ。まあそれはいいとして、この映画の最も重要な点は、ミヤギのキャラクター設定にある。ミヤギはとにかく寡黙なおじさんだ。余計なことは喋らないし、ほとんど笑いもしない。おまけにミヤギがダニエルに課す修行メニューがとにかく意味不明で、とうていカンフーの修行とは思えない、日常の雑用事ばかりなのであった。しかしその修行が、実はカンフーの基本的な動作に通じており、修行の成果によってある日ダニエルのカンフー能力が一気に開花し、そして遂に大会で優勝する、という物語だ。この物語の核となっているのが、「一見意味がなさそうな修行が実は意味があった」というダイナミズムであり、その根源となっているのはミヤギの徹底的な寡黙さである。寡黙さによって引き起こされる「説明不足」、そして「誤解」。しかし実践を通して「誤解」が「納得」へと昇華されるそのプロセスが、この映画の見所なのである。

 
さて翻って、今回問題にしている「ベスト・キッド」は2010年公開のリメイク作品だ。パット・モリタのミヤギに相当する役を、ジャッキー・チェンがミスター・ハンとして演じている。やはり、ミスター・ハンも寡黙なキャラクターだ。笑わないしあまり喋らない。説明不足によって生じる「修行内容への理解不足」が一気に解消されていく場面が、やはりこの映画の最大の見所となっている。オリジナルの物語の勘所を逃していない点は、リメイク作品としてとても評価できる点だ。しかしこの映画には大きな問題点がある。それは、ミスター・ハンのキャラクター設定だ。ハンは、寡黙なだけでなく、なんだか性格が暗いのだった。リメイク版の物語上、ハンの性格が暗いのにはそれなりの理由があるのだが、結局そんなことはどうでもよく、「なんか暗い」ことそのものが大問題なのである。この点に、2010年版の「ベスト・キッド」が失敗している原因のすべてが凝縮されている。

 
そもそも、リメイクするにあたって、なぜハンを暗い影のある人にしたのだろうか。私にはそれが理解できない。オリジナル版では、単にミヤギが寡黙な人だというところに留まっていた。ミヤギが単に寡黙だからこそ、その寡黙さに理由がないからこそ、ミヤギまたはカンフーの東洋的な神秘性を醸し出すことに成功しているのだ。ところが、リメイク版では寡黙さに理由が付加して「こういう出来事があって暗くなった」という説明が物語に組み込まれてしまっているのだ。そうなると東洋的な神秘もへったくれもないのであって、だったらカンフーの達人は東洋人のジャッキーじゃなくて黒人のウィル・スミスが演じて親子共演すればすっきりするじゃないかという話になるのである。

 
そして何より、「ベスト・キッド」リメイク版のジャッキーは、全くジャッキーとしての輝きが放たれていない。ファンなら誰にでも分かる、あのジャッキーの輝きが、全く感じられないのだ。ジャッキーの輝きとは、「笑って焦って怒って戦う」ことだ。そしてジャッキーが輝くためにはジャッキー自身が常に無計画であることが必要である。計画的に修行をして一人の弱虫を空手大会の優勝者に仕上げるというキャラクター設定自体が、ジャッキーには到底なじまないものなのである。「ベスト・キッド」のなかのジャッキーは、少しも笑っていなかった。多分一度も。ジャッキーは笑顔が命の俳優だ。だから、ジャッキーには、悪役とか、影のある人物とか、くせ者とか、そういう役は、全然できない。ジャッキーができる役は、「機敏で明るい警察官」だけだ。ジャッキーファンとして私は、このことを声を高らかにして言いたかった。そのためだけに、「ベスト・キッド」を引用させていただいた次第である。

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